社会人としての教育がなっとらん。は、社畜としての調教が終わっておらん。とほぼ同義。
社会人としての教育がなっとらんは社畜としての調教が終わっておらんとほぼ同義。
— Taigo Katsuzen (@taigo_katsuzen) September 9, 2013
今日会社の帰りがけにふとこんなtweetをしたら意外な事に多くの方からRetweetを頂いてびっくりした。
多くの人が会社の中でこの言葉に出会うんじゃないだろうか。
「社会人としての教育がなっとらん!」
僕自身は幸いにも職場のおじさんたちから言われた事がないんだけど、
僕が以前の部署に配属された新人君が陰で言われていた。
まあ社会人ということばの定義や諸説ある議論についてはとても魅力的なトピックだが今日は割愛させてもらう。
社会人としての教育がなっとらん!という言葉が言われるときはたいていの場合、新人が年次上の先輩や上司に対して丁寧に対応しなかったとか、敬語が変だとかそういうケースがほとんどだと感じている。
この言葉にあるのはある意味では「組織の中で偉い俺様に対して何たる態度!けしからん!!」というおじさんたちの奢りみたいなものを僕は感じる。
偉い人(社内において位が高い者)にはとにかく礼をして敬語を使えというのが極論なのだがこれを新人にいきなり叩き込むのは教育ではなく、調教と言えよう。
僕の勝手な解釈だけど教育と調教の違いはこんな感じ。(※解釈には個人差があります)
教育:理解をとりつけ知性と精神を育み、人間性を育てる事。
調教:訓練し、思い通りに行動させる事。
会社に入ってきたばかりの新人たちにとっては周りにいる人々は老若男女問わず全員が宇宙人のような存在であり、どう扱っていいか戸惑っているはずだ。
組織の構造や責任者大系などについて理解したり、そこでの責任者のポジションや偉さの度合いきちんと正確に理解するのには時間を要する。
きちんとした理解のない者を威圧して従わせてしまうのはいかがなものであろうか。
僕自身は敬語やマナーというのは相手を敬いたい場合、大切にしたい場合に使うものだと考えている。だから会社では外部の方は勿論だし後輩であってもお願いごとをするときは敬語を使ってたりする。
会社で多くのサラリーマンが敬語というものを使う理由は敬いの気持ちよりも、利害関係ある上司に話すときのルールとして捉えているように感じる。
そんな中でとくに納得できるような説明もなく、社内の偉い人には礼儀正しくなどとルールの盲信を強いることを僕は調教と呼びたい。
敬語やマナーと言ったものの意味や、会社内の組織や人間関係をきちんと教えた上でどう相手と接するのが良いかを考えさせたり指導していくのが理想的な教育 というんじゃないだろうか僕は思っている。
おはり。
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