サラリーパーソンは成果主義か時給主義か?
給料分の仕事ってなんだ?
会社員になると給料分の仕事をしろと新人のころから言われる。
僕自身も会社に入ってから「いいか、新人というのは給料分の仕事なんてできねえで会社のみんなから飯を食わしてもらっているんだぞぉ〜」と何度も脅されたのだが、これって何か変じゃないだろうか?
営業で売上と利益が明白にわかる仕事ならいざ知らず、会議資料作成と会計処理で身を立てる経理ピープルの仕事ってどうやって決まっているんだろうか?
可視的に会議資料作成A4一枚で3,000円、仕訳伝票起票1枚150円というかたちで明白にわかれば給料分の仕事という理論も納得いくのだが、どうにも先輩や上司によって給料分の仕事の要求水準に差があるという不思議な状況があるのはいかにも変だ。
上司から給料分の仕事をしろと言われなくなっても、他部署から異動してきた先輩から「君はまだ、給料分の価値を会社に提供できていない」と言われてかなりの勢いでモヤモヤしたのを克明に覚えている。
で、給料ってそもそもなんですか?仕事の価値ってだれが決めるんですか?そんな疑問が浮かびあがる。
給料はいかにして決まるの?
恥ずかしながら最近になって知ったことなのだが、たいていの日本企業は従業員が生活するコストを考慮したうえで給与を決定しているそうだ。労働者が一日働いて疲れた分、食事をとり休憩したりするのにかかるお金をコストを負担するのが給料というわけだ。
つまり、給料は労働者が住居を借り、食事し、服を買ったり洗濯して暮らすという人間として最低限の営みをしてまた会社に行くという、労働力の再生産を可能にするために支払われるお金であり、労働者が会社に対してもたらした利益の対価として支払われるわけではない。
年功序列の給与体系というのは労働者の生産価値ではなく社会ステータスと生活コストによって決まるのだ。これはある種、年齢別生活コストという相場表に基づいている。
独身でバリバリ働く40代よりも、家族持ちなのにヘナヘナ働くおさぼり40代の給料の方が高いのはこのためなのだ。(極端な例だけど...)
詳しくは木暮太一さんの著書、僕たちはいつまでこんな働き方を読んでほしい。
生活コスト指向の給与体系はどちらかと言うと時給的な考え方に近いと僕は思っている。
ひたすら会社に価値を提供しろと言われる日本のサラリーパーソン
なぜだか不明だが日本の会社は労働者に価値の提供を迫る。でも僕自身は生活コスト指向の給与体系の事実を知った事で日本のサラリーパーソンは価値の提供というよりも時給型の労働力提供をしているといったほうが適切なんじゃないだろうかと考えるようになった。
給与体系が利益貢献に基づいて算出されないにも関わらず価値を提供することばかりが求められるというのは結構不思議じゃないだろうか。
キャリア本を見ても経営者目線を持って会社に価値を提供しろとか書いてあるのを見かけるけど、会社に莫大な利益をもたらす価値を提供したとしても生活コストしか貰えないんだから労働力を搾取されていると考える事もできるんじゃないだろうか。
時給主義で働いているのに成果主義を求められる
日本の職場はとかく価値の提供という言葉が職場全体にこだまし、サービス残業を正当化してしまったりする。「ミスをして長引いた仕事で残業代の請求なんておこがましい」なんて言葉も成果主義で正当化されてしまう。成果主義で労働者に利益の作成が求められているならリカバリーの労働に残業がつかないというのも考えられるかもしれない。
このような時給主義の職場で成果主義が叫ばれるのはやはり不思議だ。
おそらく、この国の労働者は自分たちの雇用形態や雇用の原理原則などに無関心な人が多いんじゃないだろうか。その結果、労働者は成果主義的な考え方に染まり、そんな職場の空気が再生産されていくんじゃないだろうか。
自分で自分の労働を安売りしている人はこの国には結構多いのではないかとすら思えてくる。
給料分の仕事と言われたら労働力の搾取かも?と考えてみよう
是非、給料分の仕事と言われたら、今の私に求められる仕事量とはどの仕事をどれくらいでこなすことが求められているのでしょうか?と尋ねてみよう。おそらくこれに対して明確な回答を言える人はあまりいないはずだ。ほとんどのケースはあなたにもっと仕事をさせたいと思って言っているにすぎないはずだ。そしてそのもっとは非常に曖昧で計量しにくいものだと思う。
長くなってしまったけど、時給主義の考え方で労働者目線で働いても良いんじゃないかというのを主張したかった。
日本の職場で聞く価値の提供や、成果主義という言葉はあなたを社畜へ導く悪魔の言葉である可能性が高いというのが僕の結論である。
See you soon!